豐臣秀吉の茶湯に使用せられ、井守聾者の故に其名を生じたとの傳説を有つた(堺鑑)聾井は、【所在】向陽町聾井橋の東方にあつたが、其確な所在地は分明しない。【所在地異説】一説には向陽町百二十四番地岡村平兵衞氏邸宅内の井といひ、(岡村善太郞氏談)一般には同町七十三番地田川やさ氏舊宅前方の道路の北畔にあつて埋沒せられたものといふ。(巷間聞書)後者は最近道路工事中其傍より
忠兵衞 寬政六年 世話人
(正面)俗名 (左側) (右側) 八百平
聾 六月廿九日 〓那乃
吉兵衞 九月 三 日 長七」
と刻した墓碑を發掘したので之を裏書してゐる如くに見える。然し以上は共に聾橋より遠からぬ處にあつて、直にどちらと斷定することは出來ない。先年堺市水道課水質檢査に用ひた聾井水は田川氏前方のものといはれてゐる。(增山奈良造氏談)
【今林井】聾井は文明四年今林六郞三郞より傳はり、一に今林井とも稱せられたのであるが、寬永四年九間町東二丁萬福寺の支配に歸した。(堺鑑)堺鑑の出來た天和頃には名井として知られてゐたが、全堺詳志の作られた享保頃には既に水質を變じてゐた。此後漸く世人から忘れられ、弘化三年申唱之町名に其名を記されてゐるのは當時僅に傳へられてゐた傳説によつたものであらう。前記發掘の墓碑につんぼ吉兵衞とあるのは、井守の墓であるか否か勿論明かでない。