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晩期の問題点

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 晩期の遺跡は、後期よりわずかに増加する。紅葉山砂丘の札幌市域部分では、遺跡がほとんど姿を消し、発寒川扇状地豊平川石山・藤野地区、札幌扇状地と北部低地、月寒台地野幌丘陵に遺跡が分布している。なかでも、札幌扇状地より北部で、縄文時代の各時期を通じ初めて遺跡が出現し注目される。
 全国的に晩期の遺跡数を見ると、中部・関東地方では相変わらず減少を続けるが、東北地方と西日本では増加の傾向を示している。釧路地方の調査によれば、やはり遺跡が増加しており、札幌や東北地方、西日本と同様である。
 市内で現在発見されている晩期の遺跡は、すべてが後葉に位置づけられ、しかもそのほとんどが墳墓遺跡である。いまのところ前葉と中葉の遺跡がまったく発見されず、この点から見る限りでは、この時期には札幌が無人の荒野となったともいえる。後葉の墳墓遺跡が、縄文時代の伝統的な慣習に従い台地上に構築され、市内でも多くの遺跡が発見されているにもかかわらず、前葉・中葉の遺跡が現在までにまったく発見されないことは、後期後葉に、月寒台地を除いて遺跡がほとんど見られなくなる点などと考えあわせると、前葉・中葉には、集落を営むことができない程自然環境が悪化していたとも考えられる。
 晩期の市域が、良好な生活環境でなかったであろうことは、墓に埋葬される副葬品からも推定ができる。札幌以外の各地から発見される墓からは、土器や石器をはじめ玉などの副葬品が多数発見されるものがある。時としては完形土器一〇数個、石鏃一〇〇本以上、玉二〇〇〇個近くも副葬され、他ときわだった差を持つ墓が見られる。しかし、市域から発見される墓の多くは、副葬品を伴わないものが多く、副葬品が見られるとしても完形土器一個、石器数点のみであり、他の墓と大きな差を認めることができない。これは、市域の当時の人々の生活に安定性がないため定住性が強く認められず、特殊な品々を所持するほどの強力な指導者を出現させることがなかったと見ることもできよう。