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渡島蝦狄の来貢と貢物

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 和銅元年(七〇八)、越の国の出端の庄内地方に出羽柵を設け、出羽郡を置き、ついで和銅五年(七一二)、出羽郡を出羽国とし、これに陸奥国の最上、置賜の二郡並に移民を配し、出羽国を拡充した。養老五年(七二一)、出羽国は陸奥按察使(あぜち)管轄下に属し、ついで天平五年(七三三)、出羽柵を秋田村高清水岡に遷し、雄勝村に郡を建て、以来、出羽国は秋田に及ぶ範囲となり、さらに出羽柵の拡充が計られ、天平宝字三年(七五九)には雄勝城、陸奥国桃生城(ものおじょう)と共に秋田城が設けられた(『続日本紀』にこの年秋田城設置の記録はみえないが、『日本後紀』の延暦二十三年十一月二十二日の条に「秋田城建設以来四〇余年」とある)。
 宝亀元年(七七〇)八月、蝦夷宇漢迷公宇屈波宇(うかめのきみうくつはう)らが徒族を率いて賊地に逃げ還り、独立を計り「必ず城柵を侵さん」と公言する。以後の蝦夷の抵抗は、一度律令国家の勢力下に俘軍として組み込まれ、新しい兵器を用いその戦術を身につけただけに、戦力が増大し抵抗が強化された。陸奥、出羽の夷囚の断続的攻撃のつづく中で、宝亀十一年(七八〇)三月、夷俘出の上治郡大領伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)が叛き、按察使参議紀広純を害し、多賀城まで攻め込んで焼き払う状況下、出羽国にも影響が出、蝦夷との攻防を巡って、秋田城放棄論も起きた五月、「渡島蝦狄早くより丹心を効し、来朝貢献するに日を為す稍久し、方今帰俘逆を作し、辺民を侵擾す。宜しく将軍国司賜饗の日、意を存し慰喩すべし」(続日本紀)と出羽国に勅し、長年朝貢している渡島蝦狄に配慮している。
 なお渡島狄の貢物について、延暦二十一年(八〇二)六月二十四日、太政官が私的に「土物」との交易を禁ずる符を出しているので、その一端が知られる。それには渡島ら来朝の日に貢ぐ産物は雑皮であるが、王臣諸家が競って好い皮を買い、あとに残る悪い物を進貢するので、早くからこれを禁じているが、出羽国司がこの交易の禁を守らないので、自今この制に違うものは重科に処するとある(類聚三代格)。この渡島狄の貢物に対する下賜品は、錦などの繊維品や斧などの鉄製品であったことは前記の持統十年の記事よって知られるが、このように渡島蝦夷の朝貢は、阿倍臣の北征以来一世紀余に及ぶ。この時期、陸奥、出羽と石狩低地帯中心に交易などでの往来が顕著であったことは、江別市兵村、江別市町村農場、恵庭市柏木東、恵庭市柏木川、千歳市烏柵舞、余市町天内山等の八世紀前後のものとされる北海道式墳丘墓、それが下位の位階に組み込まれた首長層のものであるか否かは明らかでないとされるが、その墓壙から奥羽地方の製品である刀子、蕨手刀、鏃、斧、鎌、鍬、針などの金属製品、土師器、須恵器などの土器類が出土していることによっても理解される。
 ともかく東北地方の土師器文化の影響をうけて、北海道は続縄文文化からアイヌ文化社会成立の源流といわれる擦文土器文化が形成されてきたものと思われる。