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商場ちよまかうた

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 イシカリ商場の記載が見られるのは寛文期の『津軽一統志』で、当時のイシカリ川の流域の地名ならびに商場を左のように記している。
 石狩浜(湊)口より一里程登り候て、はつは(し)やふより二里程登候てさつほろと申所に有。さつほろの枝川に竪横半里計の沼御座候由。川添(湊)より順風に二日登候て、ちよまかうたと申所に多御座候。松前よりの船ちよまかうた迄参候。方々の共ちよまかうたへ集りあきない仕候由に御座候。ちよまかうたより津石狩と申所迄川路二日に登申候由。是迄大船通に能候得共、水はやく候て、中々難儀仕候由(故)、ちよまかうたより上へは船登不申候。

 この商場「ちよまかうた」は藩主「御手船」の商場であったことは『享保十二歳未八月 松前西東在郷幷蝦夷地所附』に「御船商仕候節先年は、てう間哥と申所迄罷越候由」とある記事によっても理解できるが、現在その場所を比定できる確かな所が見出せない。藤村久和はチヨマカウタを〈ci-o-maka-ota=我々が―そこを―(碇泊所として切り)―開いた―砂浜〉と解し、イシカリ川に流入する当別川河口でなかろうかと推論している。
 なおさつほろの名称は、寛文の蜂起時に西蝦夷地に入ったこれら津軽藩の物聞(ものきき)(密偵)のこの報告の中で記録されているのが初見である。
 寛文年次以前の御手船によるイシカリの商物については明らかでないが、干獣皮など取引の夏船のほか、秋味塩引鮭船が出ていたことは『津軽一統志』などによって理解できる。