イシカリ[夷百軒余、運上屋十一軒]蝦夷地秋味大猟の所、三、四十年以前には、十二はひ程有しが、近来不猟と成、五、六はひ許(有)之といふ。一ぱひと云は、千石積一艘の事にて、鮭の数五万本也。イシカリ川、大河にて、千石余の船も岸によつて繫ぐ。水上静にて水底は急流也。碇を下す事あたはず。深き処は三、四十尋も有、(中略)番人等網を以て魚をとる。うくひといふもの也。数百本を以て、川岸にて其腸を取。魚は川中へ捨流す。其故を知らず。傍人にとへば、今夕の油に用ゆると也。殊に漁利の広太(大)成る事はかるべからず。
このように、イシカリにはアイヌの家が一〇〇軒ほど、運上屋が一一軒あって、秋味漁もかつては一〇〇〇石積一二艘分というから一万二〇〇〇石もとれたが、近年では半分しかとれなくなっているといった事実が述べられている。
帰路についても、遠山等と行動をともにしているので、同様な記述がみられる。ところが元稹は、遠山の手付として随行している最上徳内に傾倒していたらしく、たまたま詩文を最上徳内に贈っている。詩文に添えられた言葉「早発石狩河、沂河水、最子員中流相別、至当別、付帰舟以贈」から察するに、最上徳内が一行と別れてトウベツなど、イシカリ平野の奥深く探検していたらしいことがうかがわれる。