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『北海随筆』

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 蝦夷地内の商場が、場所請負人による場所請負制へと変化する頃、蝦夷地金銀山開発を主唱した人物がいた。幕府金座後藤庄三郎の手代坂倉源次郎である。
 坂倉源次郎は、元文元年(一七三六)幕府に松前蝦夷地の絵図を呈上して、松前家領分でない蝦夷地内から金を産出することを建白した。やがて、同二年から三年にかけて実際に松前蝦夷地入りし、金銀山の採掘調査に着手するが結果的には見込みははずれ、金銀山開発にはいたらなかった。しかし、同四年に記した『北海随筆』には、松前の風俗・習慣、産物、地理、アイヌの風俗・習慣や蝦夷地開拓論まで展開させ、かつシャクシャインの戦いにも触れている。このうち蝦夷地開拓論は、のちのちまで大きな影響を与えることとなる。ところで、坂倉源次郎もシコツ越えのことを次のように記している。
シコツよりユウバリの通路を追て亦西蝦夷地の大道を開き、イシカリ川に船通路なす時は、東西の通路猶々自由なり。

 蝦夷地の金銀山調査の過程で、当然シコツ(古くはユウフツのこともシコツと呼んでシコツが広域地名であった)から川伝いに西蝦夷地のイシカリ川に出るルートのことは知っていたのだろう。