ビューア該当ページ

武藤勘蔵

491 ~ 492 / 1039ページ
 串原正峯らのシコツ越えから六年後の寛政十年(一七九八)、幕府は連年異国船蝦夷地に来舶するようになり、北辺の不安が高まってきたため、その対策に蝦夷地調査を行った。一行は、幕府目付渡辺久蔵胤、使番大河内善兵衛政寿、勘定吟味役三橋藤右衛門成方ら一八〇余名といった大がかりなものであった。この一行中に、三橋藤右衛門に従って西蝦夷地を宗谷まで巡回して往返した用人武藤勘蔵は、その著『蝦夷日記』にシコツ越えのことを次のように記している。
(七月)廿五日 シコツ越とてイシカリ川を船にて登る道あり。此道を出立す。トイシカリといふ所にて船中に泊す。
廿六日 未明に出船。イザリ川といふ所にて日もくれ、又々船中に泊す。二夜とも大小便は上陸して山中へ通ふ。其たび/\に蚤の如き虫、股、膝頭の下、足の甲まで一面真黒にたかり、むさき事かぎりなし。山中には熊、兔など沢山居るよしなり。
廿七日 夕方シコツに着船す。
廿八日 同所出立。船路にて東蝦夷地ユウブツに着船。一日逗留。

 一行は、六年前の串原正峯らとほぼ同じルートを通っているが、宿泊はいずれも船中で、トイシカリ(ツイシカリ)、イザリ川となっている。まだこのシコツ越え道には、宿泊施設はととのっていなかったようである。