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この時期の評価

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 第二次直轄が実施された安政二年以降、明治をむかえるまで、以上概観してきたように、札幌市域はおおきな変貌をみせてきている。それはここでいま一度再説し強調するならば、まず第一に、在住御手作場などにより本格的に農業開発が着手されたことである。第二に、サッポロ越新道が開かれ、札幌が交通上の要衝の位置をしめることになったことである。第三に、イシカリ建府論の形成と確立がみられ、その中でもとりわけ札幌の位置付けが、有力視されてきたことである。
 以上の三点は、もちろん第二次直轄以降、ロシアとの領土・国防問題に関連し、幕府・箱館奉行により遂行された蝦夷地の開発と殖民政策の一環である。それにもかかわらず、幕府倒潰後も以上の三点が、明治政府により継承され、このうち建府論に関しては、特に重要性をもっている。それは新政府の成立による近世と近代との断絶のはざまの中にあっても、札幌の近世と近代は、太く深い歴史的なつながりがあったことを示している。これまでともすれば、開拓使の設置及び開拓判官島義勇の到来により、未開の荒野に突如として本府建設が開始されたかのようにイメージ化されてきている。しかしこれは誤りであって、すでに近世の幕末期に、近代への胎動が着々と進行していたのである。それゆえ、この時期は明治以降の札幌市域の発展を考える上で重要な時期であり、なおかつ、以降の発展を支える基礎がきずかれ、種子のまかれた時期といえる。