肝付七之丞は文政六年(一八二三)に薩摩藩士の家に生まれた。青年期に諸国・江戸に遊学し、嘉永三年(一八五〇)には東北地方や松前を遊歴して『東北風談』をあらわしている。七之丞が箱館奉行に奉職するようになった理由は不明であるが、該書により七之丞の識見が高く評価され、箱館奉行の足軽に採用されたとみられる。また、安政元年(一八五四)九月に、水戸藩主徳川斉昭に蝦夷地の開発につき種々の献言をしている(松前蝦夷地開拓意見)。
七之丞が箱館奉行の足軽に奉職したのは、安政三年二月頃で、その後、イシカリ詰の足軽となるのであるが、イシカリ入りする時期は不明である。安政四年五月十一日にイシカリからアツタに入った、関宿藩士成石修輔の『東徼私筆』によると、七之丞はアツタ詰となっていた。これはイシカリ詰足軽二人のうち、一人はアツタの勤番をすることになっていたからである。『東徼私筆』では、七之丞のことを「英豪の人也」と評している。また、「懇に問ひ給ひ、詩文など見せたまひ、くさぐさの建議あれど、確論共思へり。かかる所におしき英勇之微官にかくるゝも、本意ならぬ事ならんか」と、「微官」にあることを惜しんでいる。
しかし、七之丞はこれより間もない閏五月二十三日に解任となる。その理由は、以下のようなものであった。
一 | 石狩詰足軽肝付七之丞妻看病願出し、スツヽへ罷越、(長谷川)儀三郎へ強テ申立、伺中ニ付、差図成がたき段差止候、不用、昨日出函いたし、上役之差図ニ背罷出候段、届書差出し、不法至極不埒ニ付、評議之上、御暇為申渡候事、 (公務日記) |
これによると、妻の看病の為に無断で出函したことが理由とされている。綱紀ひきしめのために、七之丞へ重い処分を課したのであるが、真相は『東徼私筆』がいう「微官」に、七之丞は耐えられなかったのではないだろうか。
七之丞は兼武、七之進ともいい、その後大伴遊叟と姓名を改める。箱館に戻ってからは農場を経営し、また明治二年(一八六九)に開拓使が設置されてからは、大主典として出仕し、北海道漁業の弊害となっていた、漁場の請負制の廃止に尽力した(明治二十年卒。広瀬豊「肝付兼武伝」)。