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『入北記』

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 村垣範正の廻浦の四カ月後、今度は堀利熙の廻浦がなされ、利熙はこの安政四年閏五月二十四日にイシカリ入りする。
 利熙は閏五月十一日に箱館を出立するが、この廻浦は総勢三一人にも及んでいた。一行の中に、玉虫左太夫が近習、島義勇(団右衛門)・畠山万吉が中小姓として加わっていた。左太夫は仙台藩士で、この廻浦の模様や各場所の状況を詳細に記録した『入北記』をあらわしている。義勇は佐賀藩士で、やはり左太夫と同じ書名の『入北記』をあらわしている。義勇の『入北記』は、雲・行・雨・施の各四巻からなる。イシカリ関係は最初の雲の巻にあたるが、残念ながらこの巻のみが残存していない(第三章参照)。義勇は、明治二年(一八六九)に開拓判官となり、札幌の本府建設にあたることになる。万吉は、安政五年(一八五八)に在住となり、ワッカオイに入植した。
 利熙の廻浦の様子は、先にあげた玉虫左太夫の『入北記』が詳しい。また、同時期に石狩川上流域の上川調査を終えた松浦武四郎もイシカリ入りしており、武四郎の『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』(以下『丁巳日誌』と略記)も、廻浦の様子を伝えている。いま両書によりながら、堀利熙のイシカリ廻浦の動向をうかがってみよう。