申渡
漁業の暇有之節ハ追々農業筋心得テ精いだせ、依テ鍬一挺宛為取遣ス
右之通役土人へ御相渡置候間、得其意漁業差障不相成様繰合遣シ、雑穀作方等教導いたすべし、尤小前土人共も追々耕作筋手馴候様仕向遣ス
漁業の暇有之節ハ追々農業筋心得テ精いだせ、依テ鍬一挺宛為取遣ス
右之通役土人へ御相渡置候間、得其意漁業差障不相成様繰合遣シ、雑穀作方等教導いたすべし、尤小前土人共も追々耕作筋手馴候様仕向遣ス
(石狩土人申渡)
アイヌへの農業奨励は、①請負人への依存性からの脱却、②蝦夷地の農業開発、以上の二点がねらいとされていた。しかし、この申渡しは請負人を媒介とし、しかも「漁業の暇」、「漁業差障」のないようにおこなうもので、請負人の恣意(しい)性にゆだねられる面が多く、実効が期待できるものではなかった。
そのことを裏打ちする事件が、早くもその日のうちに発生した。堀利熙より支給された鍬が、すぐさま支配人・通詞により取り上げられたのである。このことはすぐ利熙の耳にもはいり、翌二日に返却を命じる「仰渡」があった(丁巳日誌)。ところがこうして一度返却されたものの、その後再び鍬は取り上げられてしまった(第六章参照)。蝦夷地の再直轄の意味や箱館奉行の政策意図から遊離した、阿部屋のこのような所業は、ますますイシカリ改革の必要性を堀利熙等に痛感せしめることになったであろう。
イシカリ滞在中の六月一日に、利熙は箱館の村垣範正あてに、重要な内状をしたためている。それはまず第一に、出役下役立石元三郎以下の詰役たちの大幅な更迭であった(後述)。第二にハッサム在住地の割渡し、第三に千歳川通(サッポロ越)新道の取りきめ、第四にユウフツのイシカリ出稼漁場の許可であった。いずれもイシカリの開発、及びイシカリ場所の経営に関する重要案件であった。これらのことを今回のイシカリ廻浦でまとめた利熙は、翌二日にアツタへむけ出立したのであった。利熙はその後廻浦を続け、九月七日に再びイシカリ入りをすることになる。