金助がイシカリ詰を申し渡される前日、すなわち六月十三日に、堀利熙の内状を組頭力石勝之助が取調べた結果が、『公務日記』に引載されている。この内状は六月一日にイシカリでしたためたもので、六月十一日に範正のもとに届いている。それによると、イシカリ詰の下役出役であった立石元三郎には、つぎのような処分が下された。
無役在住発作部詰被申来候得共、出役之義ニ付、出役御免、帰番之積リニ申上候積リ、早々箱館ヘ呼上之事
これによると、内状では元三郎をハッサムの無役在住に降格するものであったが、役職をおろし箱館に呼び寄せることに決定している。元三郎は、水野一郎右衛門につぐ要職の立場にあったが、「品々不束之義」(六月十五日条)があり、同様に責任が問われたのである。元三郎の処分はこれだけですまず、八月二十一日に一郎右衛門と同様に、在住におとされることになり、十月五日にクスリ詰の在住が申し渡された。
元三郎にかわり、六月十五日に飯田豊之助がイシカリ詰の下役出役となる。豊之助は四月三日より、「当分出役」とされていたが、ここに正規のイシカリ詰となるのである。村垣範正の信頼の厚かった人物で、荒井金助を補佐して、イシカリ改革をすみやかに実行することが期待されていたのであろう。
同心では、広田八十五郎は内状では転任であったが、留任となった。しかし、足軽の松田市太郎は、「箱館詰之上、試候積り」となり、箱館詰に転任した。市太郎はこの春、イシカリ川の水源調査をした折、飛脚に雇用したアイヌが遅刻したために、「大ニ立腹、抜身ヲ以テ追駆ケ、其上縄ニテ縛リ上ゲ、杖ヲ以テ幾度モ打候由」と、アイヌに暴行をはたらいたことが『入北記』に伝えられている。このことが堀利熙の耳に入り、転任させられることになったのだろう。足軽では、先に閏五月二十三日に、肝付七之丞が免職となっていた。以上のようなイシカリ詰に対する、大幅できびしい処分をみていくと、七之丞も自身に何らかの累が及ぶことをさけ、自ら職を去ったのかもしれない。なお、七之丞の後任には、水主足軽であった武川勇次郎が閏五月二十八日に任じられた。
以上のイシカリ詰関係のほか、オタルナイ詰足軽堺仁助、ヨイチ詰同心東浦繁次郎、イワナイ詰同心村山六之丞が、あいついで転任となっている。このようにイシカリ持場内を中心に、場所詰役たちの転任は、綱紀粛正と刷新をはかるものであると同時に、詰役たちの精勤、場所請負人たちとの癒着の断絶をはかるものであった。特に、イシカリ詰へのきびしい処置は、イシカリ改革をひかえているだけになおさらであった。