つぎに、同心をみてみよう。当時の同心には、広田八十五郎・中西清三・岡田万次郎・平田弥十郎などの顔ぶれがうかがわれる。
広田八十五郎は、安政三年(一八五六)一月二十八日に、イシカリ詰となったが、もと松前藩の同心であった。四年六月になされた、イシカリ詰の大幅な刷新にも留任しており、清廉潔白な人物であったようである。万延元年(一八六〇)にクシュンナイに派遣され、越年(冬)するも、この期間中に大病に冒され、文久元年(一八六一)三月に死亡した。八十五郎の死は、「戦場の討死も同様」と惜しまれている(村山家資料 北地内状留)。
中西清三は、もと奉行組足軽出身で、安政四年六月十四日に同心となり、十月五日にルルモッヘ(留萌)詰となる(公務日記)。それから程なくイシカリ詰となったようで、五年一月改の人名録(松前箱館雑記 巻二)には、イシカリ・アツタ同心とある。安政六年までの在任が確認される。
岡田万次郎は安政二年十月十七日に奉行組の同心となるが、安政五年初めにイシカリ詰となり、翌六年七月頃にはフルビラ詰となる。『ヨイチ御場所見廻り日記』には、「元石狩詰御同心岡田万治郎様、此度フルヒラへ更(交)代として御越」(七月六日条)とある。
平田弥十郎は、万次郎の後任とみられ、安政六年十月中旬にイシカリ入りする。弥十郎は、この五月十五日に箱館奉行組の同心となった。文久元年までの在任は確認できる。弥十郎は慶応元年(一八六五)十一月八日に、定役出役となりオタルナイ詰に任じられるので、これまでイシカリ詰であった可能性もある。
以上の同心のうち、一人は足軽と同様にアツタ詰となり、アツタの取締りに従事することになっていた。イシカリ詰の同心は、もと一人であったが、安政四、五年より三人に増加している。これも、イシカリ改革による業務増加に関係するだろう。その他、安政五年八月に木村源治郎・有田精(俊)治郎の在任も確認されるが、在任期間は不明である。