イシカリ改革以降、出稼人が大幅に増加し、越年もするようになった。また箱館奉行でも、旅人役・越年役の免除、通行改の廃止などをおこない、蝦夷地への出稼・移住が簡便になると共に、永住化の奨励もなされていた。それらにともない商人・職人もふえ、イシカリに町家がたちならび、町並みも形成され町役も任命されるようになった。
荒井金助は、イシカリに本府を建設し、将来は〝北京〟にしようとする壮大なプランをもっていたので、移民の奨励、町家の建築には積極的であった。この金助のプラン及び箱館奉行の政策により、イシカリに永住人も次第にふえ、イシカリが繁栄してくる様子は、『五十嵐勝右衛門文書』などからよくうかがえる。
たとえば安政五年(一八五八)八月には、新蔵・八右衛門により船中宿の願いが出され、十月には箱館弁天町の米吉により小商内渡世と永住地所拝借願が出されている。翌六年になると、豆腐屋・髪結・小商内・渡方・料理仕出・油揚小間物・餅屋・饂飩蕎麦屋(うどんそばや)などの渡世願が続々と出されており、商工人の移住が急速に増加してい。この傾向はこれ以降も続く。五十嵐勝右衛門は、阿部屋伝治郎の本陣とならび浜名主という町役をつとめており、『五十嵐勝右衛門文書』には願書類の控や布達書類がよく残されており、イシカリ市中の動向がよくうかがえる、貴重な資料群となっている。
イシカリに町・市中が成立するにしたがい、市中の取締りのために、万延元年(一八六〇)六月に、定役渡辺五郎一と学問教授役であった大熊時雨太郎が、市中取締掛に任命されている。また、売女・飲酒等の風俗取締りの布達もみられるようになる。