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現地調査団の構成

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 幕府が北地に派遣することになった調査団は、堀利熙を長とする目付グループと、村垣範正を長とする勘定方グループの二つからなり、両グループはほぼ同時期に併行する形で現地に赴くことになる。
 こうした重層構成になったのは「元来幕府官吏登庸の法は二途に出づ。二途とは番士と小吏なり。番士は多く武人にして小吏は刀筆の俗吏なり。武人は目附に進むを以て栄となし、俗吏は勘定吟味役に登るを門戸とす」(木村芥舟 旧幕監察の勤向 旧幕府 一)といわれ、幕政を推進する常道として二系列人事のバランスを保つことが不可避であったろうし、一部に勘定方グループの調査に不安をいだく向きがあったためと考えられる。両グループとも、長のもとに各所属の幕吏と家士をもって構成し、それに多くの従者が随行した。また松前渡海後は松前藩士が両グループにそれぞれ付添うことになる。
 まず目付グループのメンバーをみることにしよう。長となる堀利熙は文政元年(一八一八)生まれだからこの時三六歳。大目付を務めた堀利堅の四子だが、三兄とも早死して家督を嗣ぎ、嘉永六年抜擢され目付となった。初め利忠といい、通称は省三郎、織部、号を有梅、梅花散人という。調査途中で箱館奉行に任じられ織部正に叙し、第二次直轄政策を進める中心人物の一人となった。外国奉行が新設されてこれを兼ねるが、幕閣の意見が対立、万延元年十一月自刃するにいたった。
 蝦夷地調査で彼を支えたのは河津三郎太郎ら三人の徒目付で、それに小人目付七人が加わり一〇人の幕吏が従った。また、家士として用人、給人、近習、絵師、医師、徒士等一三人のあわせて二四人が正規の調査団メンバーである。同行したのはこのほか草履取りから徒目付や小人目付の各従者まで多様で、徒目付は一人に七人、小人目付は三人前後の供を従え、さらに松前藩から一二人が付添ったから、目付グループの総勢は九〇人をこえたのではなかろうか。松浦武四郎をこれに加えようとしたが松前藩などの反対で実現しなかった。
 勘定方グループの長は村垣範正。文化十年(一八一三)の生まれで、堀より五歳年長、家は代々幕府の庭番を勤め、祖父村垣定行は文化年間蝦夷地を巡察し、松前奉行や勘定奉行を歴任した。範正は初め与三郎といい、淡叟と号した。安政元年一月、賄頭から勘定吟味役に昇進するが、それ以前松前藩情を内偵するため渡道したことがある。安政三年箱館奉行に任じ淡路守と称し、万延元年にはアメリカへ使節団の副使として派遣され、明治十三年没した。
 村垣のもとで勘定方グループを構成したのは評定所留役水野正左衛門をはじめ勘定吟味方改役、同下役等一〇人、彼等が堀グループの徒目付小人目付に対応する。このほか村垣グループには配下の普請役絵図師、天文方、儒者役、通詞等一〇人の幕吏が付けられた。彼等は両グループに共通する立場にあったが、勘定方に含めると二〇人の幕吏が村垣に従ったことになる。その家士として用人、給人、近習、徒士等一〇人が供をし、他の幕吏の従者や松前藩の付添いを加えると一四〇人をこす大世帯となったと考えられる。
 この両グループを合わせると少なくみてもメンバーは二三〇人をこえる。青森で一行の宿を分担した滝屋の『家内年表』には「同勢三百人計」とあるから、松前からの付添いをのぞいても試算よりはるかに多数が調査にあたったものらしく、全氏名は明らかにならない。後に箱館戦争で一方の将となる榎本武揚は「ペルリの日本へ来りし時分、余は蝦夷を跋渉」(旧幕府 五)したと語っているので、どちらかのグループの一員であったかも知れない。そのすべての人々がイシカリの土を踏んだのではなく、船行してイシカリに立寄らなかった人や別働隊があったことは後にふれたい。