これらの調査は公儀としてではなく、藩の立場でなされたが、箱館奉行として無関心ではすまなかった。イシカリ詰幕吏水野一郎右衛門等へ「執政(老中)の家来廻島に付、御持場限り取締の義、下役其外えも御申達の上、御心付御精勤有之候様」(西蝦夷地ソウヤ取計雑記)と通達した。したがって一行の旅は他藩の旅行者より恵まれた条件で、種々の便宜を得たにちがいない。イシカリでのもてなしが「晩餐頗る盛膳なり。酒を薦む。酒美なり。我等寒人平生いまだ此に当り得ず。酣酔寝に入る。裯衾また麗なり」(協和私役)と驚くほどだったのは、各地の場所請負人や支配人の手まわしによったのである。
こうした調査のすすめ方に「何れも優美にして聞合等仕居候」(佐賀藩犬塚与七郎、島義勇より田中善右衛門宛書状、安政四年四月二十四日付)とか、「当節堀田公は御老中上席なる故、此衆の権威甚し、実に可笑可惜」(自筆松浦武四郎自伝、安政四年六月二十五日条)という評判が出やすかったであろう。一部に批判はあったが、各藩とも一流の学者や将来を嘱望される若手藩士がメンバーに加わり、使命の重大さをよく理解して誠意調査に当たったことは充分評価してよい。しかし、その結論がどのようなものであったのか、なかなか見定めがたい。メンバーの個人的感慨や意見が報文にまざっているから、調査班としての意見がどうまとめられたか、福山藩の第一次分(安政三年)を除くと的確にとらえられない。
諸報文によるならば、①アイヌ文化に深い理解を示したこと、②松前藩の施策と商人の奸計を強く非難したこと、③農業開拓の必要と可能性を主張したこと等の共通点をあげることができよう。とはいえ、各人によりその内容は一様でない。