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蝦夷地用向勉勤

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 老中阿部伊勢守正弘は備後国福山城主(広島県)、一〇万石を領する譜代の名家である。天保十四年(一八四三)、二五歳の若さで老中となり、水野忠邦失脚のあと首座につき安政の開国を断行。のち老中を退くべく願い出るが、首座を交代しただけで在任のまま、安政四年(一八五七)、三九歳で病没した。この間、蝦夷地の第二次直轄を実現し、新政策をすすめる中心的役割を果たし、蝦夷地用向勉勤につき賞賜をうけた。
 安政三年四月晦日、正弘は自ら護身用の短銃を手渡し、石川和介(主任)、寺地強平、山本橘次郎に蝦夷地調査を命じ、一行は五月七日江戸出発というあわただしさ。ほかに従者がいたと思うが名は明らかでない。この年の調査を第一次とする。メンバーの一人寺地は高名な蘭学者。長崎で苦学し江戸では坪井信道(西洋医学者)に師事、藩にもどって西洋の学術文化を講じ、藩黌誠之館ができると、その中に洋学所を設け教授となる。第一次調査の結果を『蝦夷紀行』にあらわし開拓説を藩主に呈した。
 今次の調査は、六月八日松前藩の福山着より始まり、十三日箱館到着、一週間滞在し二十一日箱館出発、太平洋岸を東に進み七月十三日クナシリ島に渡った。それからエトロフ島まで約一カ月かけて回り、八月十日東蝦夷地シベツに帰る。これからアバシリまで行き東西蝦夷地の境をたしかめ、また太平洋岸を経て九月三十日箱館着、十月十九日まで滞在し、江戸に帰ったのは十一月十日だった。今回はイシカリ・サッポロを調査対象としなかったので、寺地の『蝦夷紀行』、石川らの『観国録』にサッポロの記事はないが、意見書の『蝦夷地の儀に付奉申上候書付草稿』は、その後の施政とイシカリのかかわりで重要である。