一行は安政四年三月七日郷里を出発、四月八日箱館に到着した。そこからクロマツナイ越してイソヤに出、オタルナイを経て、五月九日イシカリにはじめて来て一泊。このあと日本海岸を北上しカラフトに渡り、東海岸はタライカ、西海岸はホロコタンまで調査した。ソウヤにもどったあとオホーツク海岸から太平洋岸を通り、八月二日ユウフツ泊、翌日ここから再びイシカリを目ざす。いわゆる千歳越を往復して内陸を調査し、イシカリの位置をさらに確かめようと、八月四日イシカリ着、翌日このルートをひきかえした。この年は閏月があったから八月上旬は太陽暦の九月中旬にあたり、秋の気配が日ましに深まり鮭漁が始まる時期をむかえていた。
イシカリ再検分をおえてユウフツにもどった一行は、太平洋岸を通って八月二十四日箱館着、さらに江差から福山城下を見て九月十四日に三厩に渡った。関宿帰着は十月十日で、十七日には江戸で藩主に調査結果を復命、大任をおえたのである。その全行程一五〇〇里余、二五三日間と記している。
このように成石は老中阿部家の石川和介などと同じく、安政四年の春秋二度イシカリを検分、「開墾耕種の地には闔境中第一」であると考えた。ただし、「大禹の九河を疎せし如くにして……平土ともな」す要を説いている。だからハッサムの在住屋敷地経営に関心を持ったが実査はしていない。イシカリの平原、特にサッポロ周辺をどのように見立てるか、石川と成石ではやや趣を異にしたわけである。
次に、成石はイシカリ川およびその支流での鮭漁が始まる時期の様子を書き伝えてくれた。イシカリ川で郷里の利根川をしのび、春の無人境は秋に〝一大都会〟のごとく変わるありさまに驚きの目をみはった。アイヌがイザリブトで川に杭を打ち鮭漁の準備をする様子も興味深い。また、この紀行からイシカリ近辺の交通事情を知ることができる。日本海岸を往来する船便、川口の渡し舟、千歳越の丸木舟や通行屋、新開の道路等、サッポロへの足音が、この頃にわかにしげくなりはじめ、注がれる視線は熱くなりつつあるのを感じることができる。