しかし、蝦夷地の分領と警衛は、カラフトの漁場開発をおこなった大野藩を除き、東北諸藩に限られることとなり、佐賀藩の計画も実現にはいたらなかった。そして島義勇の蝦夷地調査も、いったん無駄となるかにみえたが、その後一二年を経て、再び生かされることになった。藩主鍋島直正が、明治二年(一八六九)六月四日に蝦夷開拓督務、七月十三日に開拓長官に任じられ、島義勇も六月六日に蝦夷開拓御用掛、七月二十二日に開拓判官に任じられ、その後義勇は、札幌本府の建設に従事するようになるのである。開拓使の当初には、各藩・寺院に分領地の割渡しをおこない、北海道の開発がこころみられたが、佐賀藩には八月十七日に、釧路・厚岸・川上の三郡が割渡された。この三郡は、島義勇が安政四年の段階で、候補地の第一としてあげていた地域である。かつての蝦夷地調査の成果が、ここにきて再び生かされている。佐賀藩の従前からの蝦夷地への関心が、この背景にあり、その基礎となったのが、ここで紹介してきた義勇の調査であった。