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漁獲高

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 次に、イシカリ改革後の漁業経営の様相をうかがうことにする。まず、鮭の漁獲高(荷物分)であるが、史料により差が大きく実数の把握はむずかしい。図2を一つの目安としてのせておく。これによると第一次幕府直轄期に年五〇〇〇石前後と落ち込んだが、天保後期より回復して第二次直轄期をむかえ、ほぼ八〇〇〇石となり、これを標準高とみなすようになる(二〇尾を一束、三〇〇束で一〇〇石目とかぞえ、売買の単位価とする)。

図-2 イシカリの年平均漁獲高

 一般的には「大漁の時二万石余も漁獲し、塩なき為め飛脚を福山に飛ばせて更に取寄せたることあり。少なき年は三、四千石のこともあり。平年一万石位なりき」(石狩場所 札幌市街 石狩町資料、図2の典拠も同じ)といわれる。イシカリ改革後、網持出稼人らは毎年のように不漁を訴えるが、表7のように安政六年は標準高を上回り、各年平均して漁獲高は確実に増加し明治にいたった。
 イシカリの漁業はが著名にすぎ、ほかの魚種についてかえりみられることが少ない。松浦武四郎が「鰈(かれい)、潜竜鯊(ちょうざめ)、ソエ、イトウ、鱒(ます)、鯇(あめます)、桃花魚(うぐい)等有。然れども荷物には成がたし。近年、チカ少し捕るよし」(廻浦日記)と言うように、いろいろな魚はとれても、それを商品として移出するにはいたらず、自家の賄分であった。このうち鱒の粕や油は利益が見込まれながら秋の準備で人手がたらず、「膏強く漬塩多分費へて、さまでの鴻益なし」(罕有日記)という。玉虫左太夫は銭箱で鱒漁を見学し「俗に地引と云ふ網を以て、人数十人を以て引揚けしか、今日は波荒の由にて〓のみ取り得、大に失望したり」(入北記)と記している。
 その〝〓〟だが、フグのことだろうか。阿部屋から独立した前支配人の円吉はイシカリで鮭漁とともにこれの漁獲を願い出て許されるが、採算がとれないとなげいた。