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収納金

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 箱館奉行がイシカリ改革を決意する要因を第一節で述べたが、三要因にとどまらぬ複雑な背景をイシカリ場所はもっていたと見られる。次に改革の背景をなした諸事情と結果についてまとめておこう。
 まず、直捌とすることでどのような経済効果を期待したかである。安政五年四月、改革断行の上申書には、生産増強策とともに漁業出高から一割五分の徴税方針を打ち出したが、現実は二~三割の税率となった。「幕府、税率を其請負金、即ち税金より算せず」、阿部屋と山田家の私約である三七、二八役に依ったため、生産者はきわめて重い負担をしいられることになり「最大不幸とす」(石狩郡河海鮭漁獲徴税沿革)と、明治になって批判されたように、役鮭からの収納金確保はイシカリ役所の重要課題だったとみられる。
 それでは改革によりどのくらいの収納金が得られたのだろうか。先に紹介した『書付』に、改革初年である安政五年は「格外出荷物有之、凡弐千五百両余の御収納高に有之、前書伝次郎受負中の高に見合候得ば、一倍余(二倍以上のこと)の御益に相成候に付、右弐千五百両を目当高に」したという。この積算は三〇〇〇石の役鮭を予定し、一〇〇石につき二五〇両(安政五年は二二〇両だった)で売ると七五〇〇両の入金となる。その三分の二(五〇〇〇両)は直捌の諸経費や御手料場の仕込み等にかかるので、差し引き三分の一(二五〇〇両)が収納金(利益)になる計算。
 安政六年の場合は(表7)、漁獲高八八六五石に対し役鮭は三〇四五石、この年の売値は安く一〇〇石二〇〇両だったから、六〇九〇両の入金となった勘定である。内五〇〇〇両ほどの経費を引くと一〇九〇両が収納金になったわけで、平年よりかなり少ない。もっともこのほか軽物等の収入が二、三割加わる。前述の『書付』が文久二年(一八六二)のものだから、平均すると年二五〇〇両前後の収納金がその頃まであったのだろう。
 その後、物価上昇にともない、売値は元治元年一〇〇石四〇一両となり、軽物他を含めて収納金は一万四三八一両、翌年はさらに高くなり一〇〇石五七一両、収納金は一万九九三九両にのぼる。この年はほかに囲荷物(次年に積み出す分)があったから、実益はもっと大きかった。ただ、物価上昇は支出金額の増大を当然ともなうから、金額のみから収益の多少を比較するのはむずかしいが、財政難にあえいだ幕府にとって、この収益増は貴重であった。