新道開削の目的をかね、蝦夷地一円の地理・地形の調査をおこなったのが松浦武四郎であった。武四郎は安政四年三月二十三日に、「石狩行被仰付候」とあり、また「蝦夷地一円山川地理等取調方申渡候へば、新道新川切闢場所其外見込の趣追々取調申上候様可致」との申渡しをうけ(簡約松浦武四郎自伝)、四月二十九日に箱館を出立する。この四年度の調査をまとめたのが、『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』であった。ただし、『燼心餘赤』では、「シリベツ川筋石狩水源行の儀願書」を、四月二十二日に組頭三田喜六に提出している。また『村垣淡路守範正公務日記』(幕末外国関係文書付録、以下『公務日記』と略記)には、二十三日に「松浦武四郎、近々石狩川辺出立ニ付呼出し面会、品々申含置」とあり、申渡しは四月二十三日頃とみた方がよいようだ。ただ同時に、「石狩行被仰付候」、「品々申含置」といずれも暗示的な記載がみられる。これは、当時イシカリ改革をめざし諸種の調査をしており(第一章参照)、武四郎にもそのことが命令されていたかもしれない。