志村鉄一の役割は、『さっぽろ昔話』によると、(一)通行家の番人、(二)渡守、(三)豊平川の密漁取締り、以上の三点が語られている。ただ(三)に関していうと、豊平川が幕末の頃にすでに、鮭の産卵と保護のために種川に指定されたかどうかは不明であるが、その可能性は高い。(二)の渡守の方は鉄一の息子が担当したようで、両岸をコクワのつるで作った綱をわたし、その綱をつたって丸木舟で渡岸するものであった。鉄一は足軽格で二人扶持を給与されたという。また鉄一は、相当の剣術士であったことが伝えられている。
明治に入り通行守は停止となるが、明治四年(一八七一)四月に、豊平橋が架設されるに及び、鉄一は六月に橋守を任じられる(七年十月五日に差免)。このように、鉄一は豊平川の通行に深い関係をもち、彼の功績を記念して大正九年(一九二〇)に、「札幌開祖志村鉄一碑」が、ゆかりの地に建碑された。
写真-4 志村鉄一の碑
(豊平区豊平3条1丁目に建立、のち豊平4条1丁目に移設)