ビューア該当ページ

通行屋番人の役割

827 ~ 828 / 1039ページ
 鉄一がその後、いつ通行屋番人になったか不明である。しかし、先の「北地内状留」でみたように、文久元年五月には番人になっていたことは確かである。松浦武四郎の『新道日誌』によると、安政五年六月の時点では、通行屋は無人であった。それ故、安政五年六月以降、文久元年五月までの間に鉄一は通行屋番人となったとしか、現在のところおさえることができない。
 志村鉄一の役割は、『さっぽろ昔話』によると、(一)通行家の番人、(二)渡守、(三)豊平川の密漁取締り、以上の三点が語られている。ただ(三)に関していうと、豊平川が幕末の頃にすでに、の産卵と保護のために種川に指定されたかどうかは不明であるが、その可能性は高い。(二)の渡守の方は鉄一の息子が担当したようで、両岸をコクワのつるで作った綱をわたし、その綱をつたって丸木舟で渡岸するものであった。鉄一は足軽格で二人扶持を給与されたという。また鉄一は、相当の剣術士であったことが伝えられている。
 明治に入り通行守は停止となるが、明治四年(一八七一)四月に、豊平橋が架設されるに及び、鉄一は六月に橋守を任じられる(七年十月五日に差免)。このように、鉄一は豊平川の通行に深い関係をもち、彼の功績を記念して大正九年(一九二〇)に、「札幌開祖志村鉄一碑」が、ゆかりの地に建碑された。

写真-4 志村鉄一の碑
(豊平区豊平3条1丁目に建立、のち豊平4条1丁目に移設)