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早山清太郎による道路開削

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 定山渓温泉への道路開削を試みたのは、シノロに入植していた早山清太郎であったようだ。このことを直接明証する史料はないのであるが、最も古く伝えるのは「札幌開拓記」である。「札幌開拓記」は、明治三年(一八七〇)から札幌本庁の担当となった開拓判官岩村通俊が、明治六年二月に辞職に際して記し、後任の松本十郎にあたえたものといわれている。「札幌開拓記」には、安政四年(一八五七)のこととして、以下のように記す。
清太郎[当時篠路村名主]豊平川上温泉[是丈山渓之温泉也]を開かんと欲し、小樽住荒屋孫兵衛に相請致し出金を乞ひ、則孫兵衛奮発豊平川向より温泉迄一條之新道を開。是温泉新道の始也。

 ここにみえる荒屋孫兵衛は、福山在荒谷村出身の瀬川伊兵衛であると、万延元年(一八六〇)にイシカリに移住し、運送業を営んだ村上藤吉が語っている(河野常吉編 石狩場所・札幌市街・石狩町資料)。瀬川伊兵衛は安政五年四月のイシカリ改革により、石狩川のフンベムイ出稼となった。早山清太郎はこの伊兵衛に相談し、彼の資金のもとに、「温泉新道」を開いたというのである。「札幌開拓記」は、全体に伝聞で得た情報をもとにまとめたもので、たとえば安政四年という年次も、確実な根拠にもとづいたものではない。しかし、清太郎が温泉への道を開いたというのは事実と認められる。