ビューア該当ページ

本陣

842 ~ 843 / 1039ページ
 安政五年(一八五八)四月のイシカリ改革の申渡案によると、阿部屋伝二郎は請負を差免し出稼とみなし、さらに「人馬継立差配方ハ是迄之通」と、阿部屋に交通関係の「差配」を認めるものであった。しかし、ここには宿泊関係の事項がぬけていた。このためか阿部屋より、「泊所取扱向致し度段」の「申立」がなされ(公務日記 安政五年四月二十七日条)、認められることになる。
 また阿部屋伝二郎からイシカリ役所への、諸種の伺の中に次の項目がある。
諸願書諸届書諸場所へ継立等、元小家と相心得可申哉。乍恐奉伺上候。

 これに対しイシカリ役所では、「本陣と相唱可申事」と、本陣と称することを指示している。これによると、諸願書・諸届書も本陣がうけつけ、さらに奥印の上、役所に提出することになり、本陣は町役的な行政機能の一端もになうことにもなった。これは阿部屋のこれまでの権益を、多少ながらも認める措置であった。町役的な役割は、安政五年六月二十日に五十嵐勝右衛門浜名主に任じられてから、両者がうけもつようになっている。
 本陣の建物が狭隘で、時には番屋が利用されていたことは先にみたが、このために万延元年(一八六〇)二月に、イシカリに旅籠屋が開業される。これは永住の徳右衛門・新蔵の両名から申請されたもので、それによると「昨年御本陣取込ニ付我々共ヘ佐竹様御用宿被仰付」、「御本陣取込之節ハ両三軒ニテ奉御請候」とある。両名の申請によると、秋田藩士の一行を昨安政六年に泊めたこともあり、今後、本陣が繁忙の折は宿泊をひきうけるので、旅籠屋の開業を認めてほしいというものであった。また、同年十一月に商人宿の開設願も出されている。
 さらに、翌文久元年(一八六一)六月には、「旅籠屋渡世之儀、願出次第可被仰付」と、旅籠屋は願い出次第、即座に許可がおりるようになっている。これは旅行者、出稼人等が増加してきたためであり、また「女召抱」も認められている(五十嵐勝右衛門文書)。