武四郎は『近世蝦夷人物誌』で、彫士モニヲマを次のように紹介している。
石狩場所サッポロなる処の小使役を勤けるモニヲマといへるは当年三十七歳、妻はクスリモンといへるがありしも、是は番人に取られて、今は七十余歳になりけるイメクシモといへる母と叔母と三人にて暮しけるが、性彫を好みて常に匙、手拭懸け、小刀の鞘、膳、椀、菓子器、印籠等種々の物彫て、又短刀の鞘に唐草雷文等を彫すると衆目を驚かざることなし。又唐物等出して夫を真似さするに、又一等の趣味ありて、其妙筆紙の及所にあらず。人ありて其彫物を好む我意に適せざる時は、三月、五月にせよ刀を手に握らず、適する時は昼夜の差別なし彫なりて、我が意に叶ふや是を贈る。我に不適時は眼前にて打砕捨、往昔飛驒の匠たる甚五郎、運慶、堪慶等も斯やと其高顔は思はるゝ斗なり。余昨年巳年(安政四)一つの彫物を頼み、彫成て年月と其名を墨もて書き、是を彫置ん事を命ずるに、やゝ暫く是を眺め居て刀を取り彫るに、筆勢の遅緩中て春蚓秋蜒の論にあらず。一丁字を不弁ものにして如此工有事衆人驚歎せざるなし。性酒を嗜む。時としては密に彫し物を持居て酒を募るにぞまた愛すべし。
これによれば、モニヲマは芸術家肌とでもいうべき彫刻の名手であった。イシカリ運上屋には細工小屋があり、モニヲマは当時ここで使役されていた。細工賃は一年間で、三俵(夷俵で一俵は八升)ないし二俵であった(入北記)。
モニヲマは安政五年六月一日に、堀利熙の廻浦の折、貧窮により米三俵が賑恤され、さらに従者たちより彫刻の妙技を賞されて焼酌一陶を贈られている。
写真-5 彫工モニヲマの図(アイヌ人物誌より)