このように、在住本来の業務以外の業務を行った場合の手当はどのようになっていたであろうか、少ない事例であるがこれを紹介し、全体を類推してみたい。
まず恒常的な、むしろ実質として専務といえるのは、大友亀太郎の事例である。すなわち大友は安政五年箱館在住に取り立てられて金一〇両を手当として給され、さらに木古内村開拓取扱を命じられ、役金六両を支給された(大友亀太郎履歴書)。ついで慶応二年蝦夷地開墾掛を命じられ、後の札幌村の基となる御手作場を担当して「俸禄弐人扶持年金五拾五両を賜」(同前)った。しかし大友文書の『石狩開墾取扱願伺取調書上帳』(慶応二年)には「御手当之義ハ石狩出役中御扶持高弐人扶持日当御手当一日永百三拾六文壱分ツヽ開墾御入用之内を以被下」とあり、また「是迨被下候別段御手当六両ハ已来不被下候事」とあって、二人扶持五五両なり二人扶持一日永一三六文余なりが蝦夷地開墾掛としての役料で、大友の在住手当金一〇両に比してかなりに高額である。
また、漁業に関する手当としては、木村家文書の『村並仕法替書類』に二つの事例がみられる。一つは安政六年に、「漁業前々より骨折相努候ニ付」という理由で鮭を給付されている四人のうちに、鈴木顕輔(一石)の名があり、「漁業中附限相努申候」などとした中で、永嶋玄造(二回)、天野伝左衛門、中村兼太郎、金子八十八郎、高橋靱負、軽部豊三、町田鉄次郎、畠山万吉が、在住の肩書で一人一石五斗から三斗四升までの鮭を支給されている。
もう一つの例は元治元年十一月で、漁場御手当仕訳中、中村兼太郎が八両、以下は在住の肩書で軽部豊三、荒井鎗次郎(荒井金助三男)、永嶋芳之助、井上斧太郎、畠山万吉、松井八右衛門、松井小申吾が各五両の手当を支給されている。中村が他の在住と別扱いとなっているのは、おそらく定役代としての扱いであろう。
この二つの例、それに大友の例も加えていえることは、在住身分のものが在住本来以外の業務を行った場合には、恒常的であるか、臨時的であるかを問わず、それに応じた手当が支給されていることである。これ自体は当時としてはむしろ普通一般のことでもあるから、史料で見出していないもの、たとえば定役代としての中村、伐木改役としての永嶋・大屋などにも、当然その役に伴う手当が支給されていたと思われる。また漁業に関する役は、そのほとんどが沿海地域に入地した在住で占められ、山麓地域の在住はごく少数である。すなわち、これらによれば、山麓地域の在住がすべて退去したのは、在住身分によるもの以外の収入がほとんどなく、経済的に行き詰まったことも大きな要因の一つとみられ、これに対して沿海地域の在住は、行政官的な業務を兼ね、イシカリ役所にその点でも従属することにより、ようやく残留が可能となったと考えられる。逆にイシカリ役所の側からみれば、行政官の役割を果たすものが、正規の詰合役人以外にも一定数必要であったとみられ、これが前述の石狩河口付近を在住不適地とする箱館奉行の意見がありながら、イシカリ役所を中心とする沿海地域に多数の在住を配置した、主要な理由の一つであったと考えられる。