御手作場は安政三年に庵原菡斎(いばらかんさい)の自費開墾場を箱館奉行所に移管したことに始まる。元幕府普請改役の菡斎は隠居の身であったが、竹内保徳箱館奉行に従う息子の勇三郎と共に安政元年箱館に来たり、翌二年より近在の銭亀沢村地内の字亀ノ尾に入り、自費でもって小屋掛をなし、また農夫を雇い入れて田畑の開墾に着手した。ここでの水稲および雑穀・蔬菜・果樹等の試作は良好であり、また農夫も増加したので、この開墾場を奉行所に属して御手作場と称し、その差配を菡斎に委ねるに至ったのである。
また同じく安政三年に、越後国蒲原郡井栗村の大庄屋松川弁之助が、同国の人別増加により他国への出稼者が増大しつつある状況に基づき、これらの農夫を繰り込んでの開墾事業の取扱方を出願してきた。よって箱館奉行所は箱館在の赤川村の内字石川沢に御手作場を設定して、弁之助にその開発を申し付けた。
この外、安政四年に出願してきた上野国伊勢崎藩酒井下野守の家来新井小一郎、さらに同五年の磐城中村藩相馬大膳亮の家来新妻助惣・佐々木長左衛門・大友新六に対し、それぞれ箱館奉行所雇(在住)を申し付けて、新井には東蝦夷地オシャマンベ、新妻らには箱館在の鶴野や木古内に設定した御手作場の差配を命じた。
文久二年(一八六二)の当時には、これら御手作場は箱館在に一一カ所・農民三〇〇人余、オシャマンベには四カ所・農民三四〇人余があったという(諸伺書類)。なお、上記の在住、御手作場の外に、箱館奉行所の奨励により、各地の場所で場所請負人による開墾も着手され始めていた。