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早山清太郎

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 この時期、官の開拓政策によって、相当数の移民がイシカリ地方に入地した。前節で略述した中田儀右衛門もその一人であるが、直接出身地から入地したものは少なかったようである。ここではそうした移民の事例紹介の意味も含めて、篠路村の祖といわれる清太郎の、荒井村に入地するまでを中心に記述する。
 清太郎の生まれは白河藩の城下町に近い、白川郡米村組(山根組ともいう)の米村(よねむら)である。現在は福島県西白河郡西郷村(にしごうむら)大字米字米村と呼び、東北地方の最南部、JR白河駅の北方二キロメートルほどのところに位置する。西南方に千数百メートルの那須連峰がそびえ、そこから流れくる阿武隈川にそって、標高三五〇~四〇〇メートルの丘陵がのび、その周囲の河岸低地は米づくり、高地では畑作や馬産が営まれてきた。
 清太郎はここで文化十四年(一八一七)に生まれた(誕生日は八月十五日、十月十四日、十一月十四日等伝えられる)。父を喜右衛門(清重)といい、次男とも三男ともいわれる。家は代々鋳物師(いもじ)で、白河市鹿島神社保存になる天文十三年(一五四四)銘のある銅鐘に、工人「早山但馬守清次」の名が見え、清太郎はこの家系につながるのだろう。この家は奈良東大寺の巨鐘鋳造にかかわり、早山(双山)の姓を賜わったとも言い伝えられる(白河風土記)。早山銘の鐘は文化元年のもの以降見あたらないというから(藤田定興 東北南部における近世の鋳物師)、清太郎が生まれたころには米村での鋳物師の業から手を引いていたらしい。それは祖父の代であったろうから、父の代からは農業に力をそそぐようになっていったと思われる。
 清太郎は幼名を巳之丞といい、近所に住む小針重蔵の養子になった。小針家も古くは鋳物師とかかわりのある家といわれ、近世は米村の庄屋をつとめ、山根組一三カ村の大庄屋を兼ねるなど、兼子家とならぶ村の有力者である。「夏中冷気等不気候にて、一体青立に罷成、其上場所により出穂相見へ不申」(上羽太邑万御用留帳)という天保の大凶作を体験するのは十代の後半、〝不羈独立の精神〟に富み、農業に専念するを好まず、伊勢参りを口実に諸地方を巡歴した。村人の伊勢参りはよく行われたようで、実兄喜平治も天保十三年に出かけている。早山家の場合は鋳物師であったから全国どこででも仕事が認められ、通行の自由と課役の免除という特典を得ていたというから、こうした気風が清太郎を旅にかりたてたのだろうか。この間に同村菊地茂右衛門の娘マツと結婚し、亀太郎(天保八年生)、茂一郎(弘化元年生)をもうけた。
 越後国新潟の商家にいた時、松前藩は福山城を建築中で、工事人夫を募集していることを知り、問屋塩越屋のとなって北海道に足跡を印した。嘉永五、六年(一八五二、三)という。進取の気概によるのだろうが、鋳物師の血筋が築城工夫たることを決意させたのかもしれない。安政元年(一八五四)、城が完成すると清太郎は職を失い、鯡(にしん)を追うようにオタルナイに来たのが翌二年春。こんどは漁夫としてニシン場で働くが、漁期をすぎると行商をしたり山へ狩に入って獣皮を集めたり、なんでもやって糊口をしのいだ。
 安政四年、イシカリに入る在住たちの住居が必要となり、場所請負人阿部屋がこの建築を請負った。その材木集めを清太郎が下請けし、ホシオキ川の上流やハッサム、コトニの山間に入り、伐木流送の仕事にたずさわるうちに、ここ一帯の地形を知るようになった。
 清太郎は、生家も養子先も当時水田を主とする農家だったから、米づくりの知識を充分身につけていた。サッポロ辺の平坦で水の豊かな土地を歩き見て、ここに田畑を開き村をはじめる夢をえがく。漁業中心の蝦夷地でニシン場の一漁夫が農村を興す計画など、当時としてはとてつもない夢物語に近かったのだが。清太郎は、まず安政四年からコトニ川の一支流ケネシベツ川のほとりで開墾にとりくみ、サッポロにおける農耕の可能性に自信を深め、永住の地を探し回った。こうして、四度も確かめにかよったシノロを墳墓の地と定め、万延元年(一八六〇)ここに家を建てることにしたのである。

写真-1 早山清太郎の墓
(北区篠路龍雲寺境内)