以上みてきたように、荒井村は荒井金助が自費で開いた村であるが、幕吏の自費開墾は、城そしておそらく亀谷も行ったし、他にも可能性がある。また荒井村開墾の動機を、荒井が堀織部正の屯田農兵の制の意図に基づき、国家のために行った、と記されているものが多いが、これらは国家意識が高揚した日清戦争後の聞取り等に基づくもので、そのような国家意識が武士の中でもきわめて微少であった安政末頃のことと考え、また他にも事例のあることもあわせると、必ずしも妥当な見解とはいい難い。もしそうだとすれば、城も、おそらくは亀谷も同じ理念によったということになり、可能性はさらに減少する。
ここで問題の整理として、この時期イシカリの農業開拓の状況等についてまとめてみたい。まずイシカリ役所直轄地内の在住は、盛期で二〇人以上入地したが、官の期待とははるかに遠い成果しかあげることができなかった(第七章参照)。また前節で述べたような米等の扶助を主体とする小規模な御手作場がハッサム村に存在した。開拓は、国防と関わって緊急な課題であったが、同時に第一次幕府直轄期と異なり、財政の窮迫が、その大きな制約になっていた。したがって開拓についても、たとえば安政四年、西本願寺がオタルナイに掛所を設置する際に、開拓もあわせて行うこととされているなど、幕府の経費にとどまらず、多様な手段を講じて、よりその急速な進展がはかられた時期であった。このような状況下で、幕吏が自費を以て開墾を行うのは、官にとってきわめて望ましいことであって、その開墾地は在住と同じく実質的な知行地とされた、と考えるのがもっとも可能性として強いように思われる。換言すれば、米などの扶助を行う主体が在住であれば在住村として土地は在住に下され切り、官の行う場合が御手作場として官の土地、そして幕吏によるものが何某開墾地として在住同様となるということである。荒井好太郎らが終始本拠を荒井・シノロ村においていたのも、おそらくはこれと関わってのことと思われる。と同時に、城六郎開墾地がその後消滅したのに対し、荒井・シノロ村が明治に至るまで存続し得たのは、金助その他荒井一家が、おそらく扶助を含めてこの村と関わってきたことが、ひとつの要因であると考えられる。
以上のことは、諸状況および傍証にもとづく推論の域をまだ脱してはいない。今後さらなる研究が必要と思われる。