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農地開発の成果

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 農民たちは入植したその年から直ちに開墾を開始している。年度別の開発田畑をみると、慶応二年は農民八戸をもって畑一町二畝歩、同三年は農民一九戸で田が四反四畝歩に畑二一町九反五歩、計二二町三反四畝五歩(田・畑とも御手作場に組み入れた既墾地を含む)、同四年(明治元年)は二三戸で、畑二三町二反四畝一八歩(入植農民以外の者の起こし分を含む)となっている。なお大友は明治二年七月に兵部省に転じ、十月にイシカリ御手作場開拓使に引き渡すにいたっているのであるが、その直前の八月に作成した御手作場開発田畑の取調書(石明御手作場開発田畑取調書上帳 大友文書)によると、開設より大友の手から離れる明治二年七月までのイシカリ御手作場の開発田畑は、田の四反四畝歩、畑の四七町二反六畝二三歩、合計四七町七反二三歩であった。
 ついでこの内訳である各戸ごとの開発状況を、同文書によってみると以下の通りである。
長蔵(畑二町五反三畝二八歩)、万次郎(畑三町九反三畝一八歩)、宅四郎(畑二町一畝七歩)、弥平次(畑二町八反四畝二六歩)、松太郎(畑三町八反八畝一三歩)、勘右衛門(畑一町三反三畝二四歩)、吉之助(畑二町三反三畝歩)、寅吉(畑一町二反五畝六歩)、寅助(田二反歩・畑一町九反七畝一〇歩)、久八(畑一町五反五畝二八歩)、徳三郎(畑一町二反五畝一四歩)、三九郎(畑一町三反六畝九歩)、磯吉(畑二町六反一畝四歩)、卯之助(畑一町二畝一一歩)、三太郎(畑一町八反八畝一歩)、嘉蔵(畑二町三畝一四歩)、佐次右衛門(畑二町三反四畝二二歩)、長八(畑二町二反七畝二六歩)、荷三郎(田二反四畝歩・畑九反六畝歩)、幸吉(畑二町一反四畝四歩)、黒鍬の第次郎(畑五反五畝一九歩)、木挽の安之助(畑七反七畝一八歩)、与惣次(畑五反歩)、馬吉(畑一町二畝二四歩)、与兵衛(畑八反一畝一七歩)、佐吉(畑五反歩)、平吉(畑八反二畝一〇歩)、嘉助(畑五反歩)、茂八(畑二反歩)