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事務の引継

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 かくして箱館裁判所総督清水谷公考は明治元年閏四月二十六日に箱館に着し、翌日杉浦旧箱館奉行より事務を引継ぎ、五月一日箱館裁判所が五陵郭に開庁を迎えた。その時手交された『慶応四年箱館地方及蝦夷地引渡演説書』(函館市史 史料編第一巻)の蝦夷地演説書・イシカリの項に次にように記されている。
、西地石狩場所の儀は去る午年(安政五年)より手捌に致し、出稼繰入役魚にて取立候に付収納高年々増減有之候。金穀幷諸仕入品は其場所に於て取調御引渡可申候。
 但、出産秋味積取船直走相願候得ば承届、出役銭収納仕候。
、同所川上幷山手え田畑開墾致居候に付、反別帳其外農夫人別共場所にて御引渡可申候。
 但、手作場の分、是迄大友亀太郎に為取扱置申候。

 このように奉行所から裁判所への事務引継完了後に、改めて清水谷総督は次の達書を出し、これも五月十二日にイシカリに廻付された。
是迄詰合之者上下一同衣食等ニ不苦様取計可申候条各得其意安心可致、其上人材ニ随ひ夫々任用可有之、今日に至リ候テハ皇家之御民たるハ勿論ニ候間、裁判所附属之心得を以尽力可致候事

 この達書によってイシカリ役所詰の面々も、ひとまずその身分の安堵が現実化する見込みとなったのである。
 かくして旧箱館奉行所イシカリ役所においても、七月に箱館裁判所より参事井上弥吉ほか附属三人がイシカリへ派遣され、旧イシカリ詰調役樋野恵助より引継を受けたのであった。この時井上は大和国天ノ川村の農民一〇余人の移民をともなって赴任したという(北海道遭難之記)。