十文字龍助は仙台藩の支藩涌谷領(わくやりょう)の藩士の三男に生まれ、幕府の学問所である江戸の昌平黌に学び、多くの儒者とも交流を持った。幕末には江戸で松浦武四郎や佐賀藩の島義勇、仙台藩の玉虫左太夫らと蝦夷地に関する情報の交換なども行った。安政四年に蝦夷地を調査した島は、途中涌谷で十文字宅に宿泊をしている。明治二年八月に開拓大主典に任じられ、開拓判官として札幌本府の建設等にあたった島義勇を補佐して、札幌草創期に重要な役割を果たした人物である。
一方、仙台藩は安政二年幕府の蝦夷地上知にともない、蝦夷地のうち、シラオイからシレトコおよびクナシリ、エトロフの警衛を命じられた。同藩は同年七月に警衛の持場を領地とすることを幕府に要請したが、これはそれ以前からカラフト状況の緊迫化などをふまえて、道内の調査・情報収集にあたっていたことと無関係ではない。この調査は、幕府の直轄後さらに大規模となったが、十文字もまず安政二年六月に藩命をうけて蝦夷地状況視察のため江戸を出発して箱館に渡り、西蝦夷地からクナシリまで調査して、同年十二月に江戸に着し、さらに翌三年には六月に箱館着、七月には堀箱館奉行ほかから、蝦夷地開拓等についての意見の提出を求められた。十文字は十月十七日に箱館を出立したが、堀への蝦夷地開拓策の提出は、おそらく九月頃になされたものと思われる。このように十文字の蝦夷地開拓意見は、堀の要請もあったが、同時に仙台藩の強い関心に基づくものでもあったといえよう。