武四郎の蝦夷地全域にかかわる調査は六回におよぶとさきに述べたが、このうち前三回、すなわち「初航」、「再航」、「三航」の調査行では、武四郎自身いまだ北辺の危機を憂える一介の志士の身分に過ぎなかったし、また松前藩による蝦夷地入地の厳重な取締りもあって、おそらく思うような調査は成しえなかったといえよう。入地ができたのも、「初航」ではネモロ場所の請負人和賀屋白鳥宇右衛門の手代として、また「再航」は松前藩カラフト詰医師西川春庵の下僕として、さらに「三航」ではクナシリ場所請負人柏屋喜兵衛の持船長者丸に便乗しての、それぞれ蝦夷地行であった。そのため当然その行動も仮の身分に相応して制約があったはずである。とはいえ、この三回で早くも、ほぼ海岸線沿いに限定されていたとはいえ、東・西・北の各蝦夷地の全行程をつなぎ合わせていた。
後の三回、すなわち「廻浦」、「丁巳」、「戊午」の調査行は、幕吏としての身分による実検であった。したがってここでは調査に関する制約は少なかったであろうが、ただその調査行には特定の使命が負荷されるのもまた当然であろう。ところで武四郎はこの三回にわたり、東・西・北の蝦夷地全域を、沿岸・内陸を問わず縦横に巡り巡って、想像に絶する踏査を実施しているのであるが、その調査の主要な目的は一体なんであったのであろうか。
安政三年の「廻浦」の調査は、本来西・北蝦夷地の請取のための蝦夷地行であったが、その指令を三月八日に受け、出発前日の同月二十八日に武四郎は、「又御役所へ出候処、織部正殿(堀箱館奉行)、下野守殿(竹内箱館奉行)懇に西蝦夷地新道をよく見立候様御沙汰有之候」との、特命を受けたと記している(簡約松浦武四郎伝)。
ついで翌安政四年の「丁巳」調査行の際は、四月二十三日「石狩行被仰付候」(傍点ママ)とあって、引き続き「蝦夷地一円山川地理等取調方申渡候へば、新道新川切闢場所其外見込の趣追々取調申立候様可致、右之通淡路守殿(村垣箱館奉行)被仰渡」たと述べている(前出)。
さらに安政五年の「戊午」の調査行においては、正月十二日に武四郎自身が、「蝦夷地山川地理取調に付伺書」を提出したのに対し、十五日に「伺書惣て見込の通り被仰付」(傍点ママ)たが、また出発の前日の同月二十三日に「村垣君御逢、惣て蝦夷地新開新道の儀内談有之候」と記している(前出)。
以上の文言を見てみると、松浦武四郎の蝦夷地調査行においては、その山川地理の取調べと共に、蝦夷地の新開道路の見立てが、一貫してその主要命題として課せられていたことがうかがえるのである。