明治二年七月八日政府は「職員令」と「官位相当表」を制定し、二官六省(後に八省)の機構を中心とする新たな官制を編成・整備した。二官とは神祇官・太政官であり、六省とは民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の各省で、これらは太政官のいわば内局に当たる。その外に太政官は特殊な職務を管掌する、いわば外局に当たる行政機関をも総理している。それは集議院・大学校・弾正台・春宮坊・留守官などで、いずれもその機関の長は、「官位相当表」によると、太政官の参議や各省の卿と同等の正三位に相当させている。上記の外に待詔院・宣教師・開拓使・按察使の機関も置かれているが、共に臨機の職なので、「職員令」にも「官位相当表」にも職階や官位相当の明示はない(法令全書)。
ところで、この官制改革で初めて姿を見せた開拓使の職務内容は「諸地ノ開拓ヲ総判スル事ヲ掌ル」とのみの記載しかない。またその職階は八月二十日に改正され、長官一人、次官一人、以下に判官・権判官・大主典・権大主典・少主典・権少主典・史生とされている(『法規分類大全第七巻官職門』)。この「開拓」という職務は、これ以前の官制においては、「拓地育民」あるいは「開拓疆土」とかの表現をもって、一貫して外務の職掌の一つとされてきた。「外国交際・条約・貿易」などと共に「開拓」を外務の職務内容としていることには違和感をいだかせるが、事実その外務から「開拓」の職務の除外を要請する上申書が、早く明治二年二月十二日太政官に提出されてもいた(公文録 外国官伺)。その「開拓」の職務を担う機関として、ここに開拓使が新たに設置されたのである。
二年七月十三日にそれまで開拓督務の職にあった鍋島直正が、初代の開拓長官として任命された。この前後から開拓の問題とか人事に関し、政府部内あるいは首脳間で論議がなされた模様で、その断簡が当時の文書・記録に散見する。そして同年七月十六日に至り「参朝、蝦夷開拓議事有之、大綱相決ス」(大久保利通日記 下、以下大久保日記と略記)との記事が現われた。
長官に引き続き、七月二十日に前会計官判事兼蝦夷開拓御用掛の島義勇を開拓判官に、七月二十三日に前箱館府知事の清水谷公考を開拓次官に、また同日前佐賀県権大参事の岩村右近(定高)を鍋島の推挙により開拓御用掛に任命した。そしてこの七月二十三日に太政官は、鍋島長官と清水谷次官に対し「長次両官交代石狩表出張」を、ならびに島判官にも「石狩表出張」を命じたのである(公文録 開拓使伺)。この開拓使最高幹部への最初の示達が石狩出張であったということは、石狩を蝦夷地開拓の本拠と目したからにほかならないであろう。この開拓使人事と石狩出張の決定が、大久保のいう蝦夷開拓の「大綱」ではなかったかと考えられるのである。