ビューア該当ページ

函泊事件

10 ~ 11 / 1047ページ
 このまさに開拓使が発動せんとした日の翌日(明治二年七月二十四日)に、政府を動転させる事件の報告が飛び込んだ。それは箱館裁判所(府)権判事(開拓使となり権判官)として慶応四年六月北蝦夷地(樺太)に赴任していた岡本文平(監輔)がこの日帰京し、去る明治二年六月二十四日ロシア軍艦が多くの人員を輸送して来て北蝦夷地函泊(ハコトマリ)に上陸、アイヌ墓地や和人漁業者の魚干場を荒して道路・家屋を建築し、わが国の抗議にも応じない旨の報告であった。この函泊は、松前藩が北蝦夷地に進出(十八世紀半ば)して以来の一根拠地であり、かつ箱館裁判所蝦夷地詰の公議所が置かれている久春古丹(クシュンコタン)と、川一つ隔てた隣接地である。したがってこのロシアの行為は、わが国の北蝦夷地経営の存立を脅かす重大事件であった。この一報を最も早く受けた一人の大久保はその日、実に驚駭に堪えず、と記している(大久保日記)。
 すでに幕末以来北蝦夷地においては、北上するわが国と南下するロシアとが接触し、暫定措置としての両国雑居の仮規則のまま経過してきた。その間ますますロシアは勢力を増大させ、幕府もまた新政府もその対応・解決を模索しつつあった矢先の事件であった。それだけにこの緊急事態は政府をして混乱に落とし入れた。参議の広沢真臣の日記によると、七月二十六日から政府部内での対策討議が開始されている。また、『明治天皇紀』によると、特に八月十日以降は、樺太(この八月十五日に北蝦夷地を樺太と改称した)と北海道を併せたいわゆる北地の問題を含めて、連日のごとく御前会議が開かれている。この間広沢は「唐太及北海道開拓一件議事有之、実に不易事件なり」と記している(広沢真臣日記、以下広沢日記と略記)。ここに開拓使発足時の石狩を本拠とする蝦夷地開拓の「大綱」は、最早棚上げの状態となったのである。