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外務省の北地出役案

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 この混乱の最中、いち早く情報をキャッチした英国公使パークスは、八月一日わが国の久春古丹措置と樺太方針を問い合わせてきたが、即刻返答はできずに後日を約した。同月八日に政府は取りあえず外務大丞丸山作楽と同権大丞谷元道之を樺太に派遣して、ロシアとの交渉に当たらせることに決した。翌九日岩倉大納言・鍋島開拓長官・沢外務卿・大久保参議らがパークスと会見し、この時点での日本の方針を伝えた。その内容は直ちに五、六百人、九月中旬までに千四、五百人の役人・移民を送ってまず樺太の開拓を進め、後に宗谷を固め、また雑居は弊害をきたしたので対露交渉を始めるつもり、などというもので、その北地開拓については特に裏付けのある内容ではなかった(日露交渉史)。
 ところがその翌々日の八月十一日外務卿沢宣嘉より鍋島長官宛に、「樺太、根室、宗谷、石狩、箱館ノ出役人数等通知ノ件」と題する文書が廻章されてきた。その内容は、
唐太
 惣轄人撰并出役人数降伏人五百人
子モロ
 同 断
宗也
 同 断
石狩  兵部引受
 惣轄人撰并出役人数降伏人男女三百人
箱館
 人撰出役
 庄内兵隊一大隊[此分軍務ニて所置]

とあり、さらに右に続いて一三項に及ぶ出役の準備・手順等を挙げている。そして末尾に「右民部大蔵兵部等早々打合惣て決定委細書付可申出事」と、各省と協議の上早急に決定して申し出るべきことを指示したのである(日本外交文書 二)。
 以上みるように北地の開拓や警備に関し、ここでは外務省の主導によって推進されているのであり、またその拠点配置も前日のパークスに返答した樺太優先の考えと異なり、樺太と蝦夷地の同時的展開を示している。さらに開拓使発足時に決定していた石狩支配は開拓使の所轄からはずされ、後述するところであるが、すでに会津降伏人始末として計画を進めつつあった兵部省にゆだねられていることを示す。それに各地において決定すべきと指示されている惣轄者の事項は、箱館のみ記されていない。これは箱館は開拓長官もしくは次官の拠する所との意で、この案では開拓使の本拠として箱館を想定していることがわかる。これらに伴い、先に島判官に発せられていた「石狩出張」の辞令は、八月二十日頃「箱館へ出張」と変更を命ぜられるに至ったのである(公文録 開拓使伺)。