写真-3 島義勇
ところが島は、北地出張の諸官が決定した直後の九月早々、太政官に次の伺書を提出した。
函館詰長官始メ多人数ニ付、私儀ハ函館到着之上直ニ石狩え罷越、最前御治定之通北海道之本府相建候基本之取計可仕、大事件ハ長官え可相達小事件ハ則取計可申、会津降伏人之中ヨリモ人材ニ従ヒ夫々撰挙可仕、此段奉伺候事
(公文録 開拓使伺)
この伺に対し太政官は、九月五日「伺之通被仰付候事」と指令している。
前記したが、八月二十七日開拓使が岩倉に提出した移住計画書によって、開拓使の各出役は内定していた。また八月中旬には判官等の配置も考えられていた(岩倉具視文書)。これらを合わせて再び配置をみると、宗谷は竹田判官の下に官員二一人と移民一三〇人、根室は松本判官の下に官員二〇人と移民一三〇人、樺太は岡本判官(丸山・谷元は外務省出役)の下に官員六〇人と移民三〇〇人、それに函館は東久世長官、島・岩村判官、杉浦権判官の下に諸場所を含み三〇〇人余(官民の別不明)であった。
このような状況の下で島判官は、函館の配置が多人数なので、すでに政府が決定済の石狩本府建設の基礎事業に当たりたい、と申し出たのである。そして事業を進めるに際し、大事項は長官に通達し小事項は自分の決定で推進するという手順や、また近辺に入植する兵部省管轄の会津降伏人から人選により採用することを含め、すべて政府の了承をとりつけたのである。