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兵部省北海道支配の廃止

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 島の松浦を通じての掛合が功を奏し、十一月に入り早速兵部権少丞北海道開拓掛の大橋慎が石狩に出張を命ぜられ、銭箱にも用談のため来て島と会した。島の松浦宛書簡によると、その結果「開拓使兵部省共少モ隔意無之、開拓ノ御趣意同心協力可致ノ巨眼ニ付、至極同意ニ存候」と、兵部・開拓両者間の確執は氷解し、ここに島は十一月十三日新たに以下の再掛合を松浦に依頼した。
 それは、開拓使としては「降伏人引受候義ハ不相好候得共」、「後来両官(兵部省開拓使)ノ矛盾ヲ不生為メニ」やむを得ず、従来兵部省が降伏人処置のため請負った費用を開拓使が肩替わりし、さらに大橋を開拓権判官、井上・桜井を開拓大主典、その他諸附属を開拓使に転任させ、そして「是迄兵部管轄相成居候石狩郡を始め総テ九郡共開拓使へ御合一相成候ハヽ、尤宜シカル可ク候」と、兵部省北海道における管轄を、地所・物資・官員一切をそっくり開拓使に移管しようとするものであった。なおこの案には大橋も同意しており、またこの案が成立不能ならば、先の兵部・開拓間の二郡宛地所替を早急に決定されるべく申し添えている(同前)。
 この再掛合の論議は急速に進行した模様で、十二月(日時不詳)に島の掛合内容と多少の変更は見られるが、開拓使は「兵部省支配地管轄替ノ義伺」を太政官へ提出した。それは
 北海道ノ内九郡兵部省支配被仰付置候得共、諸事手々ニ相成候テハ双方共開拓ノ手紛ト可相成ニ付、兵部省支配被差免、開拓使へ被相属度事
 九郡ノ内三郡別紙ノ通松平慶三郎へ管轄被仰付度事
  附降伏人共慶三郎へ御引渡被仰付度候事
 兵部省ヨリ北海道出張ノ官員開拓使へ転職其儘在職可被仰付候事
(市史 第七巻)

とあり、兵部省管轄九郡の内、三郡を松平慶三郎(容大)管轄としたことが、島の掛合との相違点である。松平慶三郎は旧会津藩の旧主家で、これに会津降伏人を引渡してその処置を委ねようとしたのである。
 かくして政府は三年一月、旧幕吏と旧幕府軍に加担した全ての旧藩士の罪をゆるしたことに伴い、会津降伏人も慶三郎に還付し、また兵部省管轄分の瀬棚・太櫓・山越の三郡と新たに歌棄郡を加えた四郡を同人に管轄せしめた。さらに同年正月八日残る兵部省管轄の石狩・高島・小樽・白糠・足寄・阿寒の六郡も開拓使に移管され、ここに兵部省北海道支配は廃止されるに至ったのである。
 他方兵部省の大橋は三年正月五日「慎回顧愚慮仕候処、北海道ニて島判官、函港ニて長官公判官へ大論ヲ述置候義ニ付、縦ヒ兵部省被免候とも開拓へ転職被仰付候ニてハ、大ニ開拓之基本論定仕リ、長官公ヲ乍及輔佐仕リ精々勉励」と岩倉に開拓使転職を願い出ていたが(岩倉具視文書)、一月八日開拓権判官に、また井上・桜井も一月十二日に開拓使出仕を命ぜられた。