島判官が銭函に到着したのが十月十二日、札幌に本府の官衙建設に着手したのは十一月中旬である。この一カ月の間島判官一行は何をしていたのであろうか。その間の史料として、①「巳十一月 諸請(受)払附込 豊平金穀掛」、②「明治二己巳年十月 御入用扣 豊平役所」、③「御仕入品 直段附 豊平分」、④「明治二己巳歳十月 山夫諸品願受扣 豊平御役所」、⑤「十一月二日取調 小樽内より御買上之仕訳帳 札幌詰」、という帳簿がある(明治二年書類道文一五一、一五三)。それらの日付は、明治二年十、十一月とある。内容をみると①は全体の総括であり、②~⑤は①の明細である。題名でみるかぎり、豊平役所の明治二年十、十一月の諸帳簿である。しかし豊平村が設置されるのは六年である。したがってこの「豊平」は後の行政村としての豊平村のことではない。また豊平通行屋を役所とするのも不自然である。従来語られてきた昔話に、このような「豊平役所」があった話はない。関係ありそうなのは深谷鉄三郎の昔話で、札幌へ来た役人を紹介した際に、「豊平向うの開墾掛長石山」といっていることと、島判官の本府建設計画図である「石狩大府指図」に、札幌川東岸に「豊平村」の記載があることである。
しかし諸史料から、この頃に「豊平開墾」と呼ばれる事業が行われたのは明白である。現在ある史料から、以下にこの「豊平開墾」の様子を不十分ながら描いてみる。