開拓使は大蔵省から二年八月二十九日昇平丸と咸臨丸の支給を受けた。北海道への物資補給と北海道産物の販売のための輸送用である。この二隻のうち咸臨丸は、二年秋には三戸県へお救い米を輸送したり(御用談留 道文五〇八)、また小樽へ魚油の輸送に従事させようという意図もあった(諸官省往復留 道文一四二)。その後咸臨丸は、四年十月仙台藩の陪臣たちの移住の航海の最中に沈没した(開拓使公文録 道文五四八八)。
一方昇平丸は九月二十一日品川港を出帆する。この開拓使管轄後の初仕事が、銭函への物資輸送であった。積荷は、東京出帆時には函館銭函行きの一三〇〇俵余の米、函館では柾貫木タル木など二三八石余の材木を積み込んだ(旧開拓使会計書類 道文六三二六)。また島判官が十月二十三日「昌平丸モ無滞御地出帆相成トハ存候得共、今以着船無之、前文米穀甚払底ノ土地、頗困却イタシ候」とのべて、昇平丸を待ち受けている(開拓使公文録 道図)。さらに東久世長官も十一月十六日「其御地米不足之由、兼テ昇平丸を以廻米之筈ニ候得者、船傷等有之、甚及遅延候、然者両三日中当港出帆為致可申候」と書き送り、昇平丸の位置付けの重要性に対する認識を示している(諸官省往復留 道文一四二)。特に前述のような全国的・全道的米不足の状態下では、昇平丸は、島判官が石狩で行おうとした事業にとって重要な存在であった。