だが米だけ取られたのでは場所にとっては死活問題となる。そこで、その見返りとして島判官は、浜益・厚田・忍路の出稼ぎ人を人足として本府建築に抱えこんだと考えられる。そのため十月二十三日付の島判官の書簡中にある七、八十人の役々上下、さらに十一月初めに着いた職人たち数十人が、物資不足の最中であるにもかかわらず、三年二月には諸職人人足だけで五五四人にまで増加しているのである。このことから、島判官は米を運送すると共に諸場所の出稼ぎ人たちも札幌へ集めたと考えられる。特に札幌にとってみると労働力としての職人人足も確保でき、さらに米も調達できて一石二鳥である。また島判官がそうして物資を集めた背景には、北海道全般的な物資不足から諸場所の出稼ぎ人たちや永住人たちを保護する意味も含まれていた可能性もある。またそのためにも島判官は、無謀と思われる厳寒期の建設作業を続ける必要性もあったことになる。
しかしそのため三年二月には諸職人人夫など五五四人以上に加え、役人たちや牧場方の人足なども本府が抱えることになる。それらの人びとへどれほどの米や金を支払ったかを明確にできる史料はないが、さきの『開拓使銭函方御蔵米御用金請払 明治二、三年』にある「巳十月より同十二月迄諸渡方類寄」「銭函御蔵玄白米諸渡調」がそれを示唆している。「巳十月より同十二月迄諸渡方類寄」では、三カ月間で二六〇石弱が銭函御蔵から人足飯米や札幌送り米などの名目で支払われ、「銭函御蔵玄白米諸渡調」では一月分九五石余、二月分一四六石余という蔵出高があったことを示している。これだけの蔵米出しがあると、前述したような諸郡からの調達や購入の量だけでは、物資不足は改善されなかったと考えられる。