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明治維新政府の立案

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 北海道の開拓と移民招致については、蝦夷地が幕府の再直轄に移された安政元年(一八五四)以降、在住制などにより進められ、札幌には御手作場も設置されてわずかながら推進されてきた。
 幕末期に蝦夷地開発論をさかんに建言し、明治初期の箱館裁判所開拓使などの高官となった松浦武四郎、岡本監輔、十文字龍助などは積極的に移民招致を説き、彼らの意見は明治新政府の施政の基礎ともなった。
 新政府のもとで慶応四年(一八六八)三月に蝦夷地開拓の議が決定されるが、この施策の中心となったのが清水谷公考、高野保建井上石見である。清水谷・高野の二人は三月十九日に七カ条にわたる意見書を出し、その中の第一条で、「蝦夷開拓之儀、諸藩へ御布告被仰付、有志之者何時モ自由ニ令移住」(復古記 二)と、自由な移住を認めることにより蝦夷地の開拓が促進されると主張していた。また井上石見も三月二十五日に提出した蝦夷地開拓の意見書の中で、開拓は「内地ノ民ヲ移ササレハ成功遂ケ難キ」と説き、そのためには「第一内国旧地ノ荒廃セサル様、夫役ヲ省略シ、器械ヲ製造シテ、人民ヲ生スルノ策」が「今日ノ急務」(復古記 三)と主張し、移住の前提として「内国旧地」の改革の必要性も説いていた。
 四年四月十二日に「蝦夷開拓之御用ヲモ」職轄とする箱館裁判所が設置され、清水谷公考は副総督に、井上石見は徴士兼内国事務局権判事として箱館在勤になった。その後、清水谷は総督あるいは箱館府知事となり、井上は箱館府判事などになり、開拓や移住政策を推進するはずであったが、榎本武揚の率いる旧幕府軍が蝦夷地を占拠し箱館戦争が起こったため中断された。だがその政策は後に開拓使へと引き継がれることになった。