庚午移民は土地の割渡しを受け六月以降、さっそく開墾や家作に着手したようである。開拓使の大主典であった十文字龍助が残した『御金遣払帖』(市史 第六巻)により、これらの動向をさぐることができる。
まず、大根・蕎(そば)の種が購入されており、すでに農作の時期遅れでもあるが、わずかながらも種まきが行われたようである。ちなみに、この三年に庚午一ノ村(苗穂)では一〇町、二ノ村(丘珠)では五町ほど開墾されている(開拓使事業報告 第二編)。次に家作では、四五軒分が二〇二五両で大工の銀蔵、七〇軒分が三一五〇両で弥兵衛、そして庚午三ノ村のうち五軒分が二五〇両で福玉仙吉に、それぞれ請負わせている。家作の営繕料の支払いは閏十月で終わっているので、移民たちの家もこの頃にはできあがったようである。丘珠村では十二月に家屋が給与されたという(市史 第七巻二六一頁)。