ところで北海道の開拓問題に関しては、黒田は必ずしも、彼のいう「一定不易」の方針や施策を当初より有していたわけではなかった。例えば三年十月の建議において、「開拓事宜ノ大略ヲ論セン」としつつ、その開拓・移民の方策としては「蝦夷地ハ則土人撫育及漁猟産業ノ法都テ旧貫ニ仍リ、惟其民害ヲ除キ、渡島国及ヒ奥羽諸国寒気ニ習フノ民ヲ移シテ之ヲ充ツヘシ」(公文録 樺太開拓使伺)という所見にとどまっているのである。
ところが欧米の開発状況を視察し、また北海道開拓の顧問としてケプロンらを招聘して以降の黒田の見解は、一変した開拓方針と施策の提示となって表われる。例えば「開拓ノ大主意」について触れた六年十月の管内布達をみると、
凡ソ事小大トナク先ツ其目的ヲ立然ル後順序ヲ逐テ之ヲ施サヾル可カラズ、况ヤ開拓ノ大業ニ於テ豈ニ襍施妄作スベケンヤ、抑清隆開拓ノ大主意ハ、先ツ道路ヲ開通シ船艦ヲ備ヒ運輸ノ便ヲ得セシメ、地質ヲ検シ物産ヲ査シ、開拓ノ資本ヲ立テ、然ル後民政ニ及ホシ適宜処分ノ善法ヲ定メ、利用厚生ノ道ヲ尽シ、終ニ全道ヲシテ殷実ニ至ラシメントスルナリ
(黒田清隆履歴書案)
とあり、まず交通・運輸を整備し、資源・産物を調査し、開拓の財政を確保することを先務とし、しかる後に移民を招来して、彼らを保護する法規を制定し、そして生産の安定と産業の振興を図ることによって、全道の繁栄はもたらされるという、開拓の緩急手順を付した合理的・論理的画策を提示している。これはまさしくケプロンらが首唱した開拓画策と軌を一にするものであった。