札幌での町体制が整備されていく一方で、政府の町村統制も進んでくる。その一つが戸籍吏であった戸長を地方の町村の管理者として掌握することであった。五年四月太政官布告一一七号で、従来の町村役人を廃止し戸長・副戸長と改称することとして、従来の町村役人の事務を取扱わせることにした。次いで十月大蔵省布達一四六号で、戸長だけでは戸籍区をも総括するには差し支えるとして、地方適宜に一区に区長一人、小区に副区長を置くことにした。さらに区長設置の事情について、「先前大庄屋大年寄ト唱候類自己ノ権柄ヲ以不正ノ儀モ有之趣、右ニ因襲シ事務壅蔽等ノ害相生シ候テハ難相成ニ付」(法令全書)と述べている。この問題となる実態は、札幌で出された布達を参考にすると次のような問題である。
それは、まず「樽代肴料ナトヽ相唱旧節句或ハ此ノ地へ移住之節等戸長副以下へ贈リモノいたし候よし」であり、次いで「町会所へ願書等差出候節取次の者等へ謝礼として金銀を遣候趣」であり、さらに願書等の代書料をとることである(市史 第七巻)。これにより、町役人等が旧来の慣行で町村を支配する方式を廃止し、町村の官吏としての立場が強調されることになる。この事情は開拓地である札幌でも同様で、六年二月区長に井手正文、権区長に斎藤実昭が任命された(同前)。
全国的な実情では、本来戸長設置とともに数村を含めて大区小区を設定し、事務上の簡素化をはかった。しかし札幌ではすぐに大小区を設定せず、七年二月になって札幌郡内の市中を三小区に、周辺村落を二小区に区分した。これはその後各国ごとに番号を付けると、札幌本庁などの場合、同一番号の大小区が成立するという混乱が生ずるため改正され、九年九月北海道大小区制として布達された。これで札幌郡は第一大区となり、市中を三小区、周辺の村落を三小区に区分した(同前)。