『細大日誌』に「辛未移住民明小屋」を焼いたとある。この辛未移民とは三年末頃札幌で集められた移民たちで、四年になると辛未一ノ村移民と称された移民のことである。彼らは東本願寺付近から豊平川端辺(南六条西一~六丁目辺か)に建てられた茅造りの移民小屋に一時収容され、四年二月琴似村へ移住していた。この小屋は空家としてしばらく残され、六月通行人の煙草の投げ捨てのためか、その空小屋の一つから失火し、焼失するという事件が起こった(評議留 道図)。その後この空小屋は、市中へ移住してきた商人が家作ができるまでの臨時の住まいとして、開拓使から拝借して利用するということもあった(市中諸願綴込 北大図)。史料的に確認はできないが、『札幌区史』にあるように、市中への移住民が家作をせずにこの小屋に居座ったという可能性は十分ありえる。もしそうであるならば、家作費を支給している開拓使は、移民側の違約行為でもあるから、火災予防の面だけでなく、家作することを求めて強硬な手段に出る可能性は否定できない。
後に開拓使は家屋改良政策を進めていく。その場合、耐寒・耐火建築を奨励していくのであるから、五年の段階で草小屋の一掃を図ろうとする意図があったとしても不思議ではない。またその場合、御用火事というような強硬手段は、本普請を行わない市中の移住民への脅迫的意味も含まれることになる。