以上のように御用火事にかかわって、まだ様々な問題が分析されずに残っている。以上のような推論を含めて、御用火事の原因について、考察してきた順に列挙すると、次のように四点が考えられる。第一に辛未一ノ村移民の空小屋が野火の延焼や失火によって、本府建設を無に帰するのを防ぐための防火意識が上げられる。第二に五年春に行われたらしい一部の区画の変更を実施するための準備として行われた可能性がある。第三に、高額の扶助を受けながら家作に着手しなかった移住民の違約行為に対する脅迫的意味合いの可能性が否定できない。第四に、五年に予定された本格的な本府建設、特に官地での官宅や本庁舎の建設地を野焼きして確保することである。第一の理由は建設事業の保守、第二から四は本格的建設のための準備と性格づけられる。
御用火事の日付は明治五年三月二十六日である。その日官員一同総出のなか午前八時から午後五時頃までかかった。また十文字の日記では、二十七日の項に御用火事に当たると思われる記事がある。この日付は、日記の二十六日の項に何の記載もないことやその夜に十文字が宿所にしていた偕楽園辺まで延焼してきて大変な様子を描いているから、延焼してきた分のけりがついたであろう二十七日に火事について記したのではなかろうか。しかしこれだけの事業であるから、御用火事は一日だけでなく、数日または数回行った可能性も否定できない。また御用火事での消防組または町の消防団の組織と活動については確認できなかった。
御用火事の区域は、ガラス邸(北四西一)前から脇本陣(南一西三)近辺と東本願寺(南七西七)から薄野辺である。しかし『十文字日記』にあるように、延焼して琴似又一が居住していた杓子琴似川辺のかなり北西部まで広がった。焼き払ったものは、莚か茅で作った辛未一ノ村移民の小屋と官地の本庁舎や官邸・官宅敷地予定地などである。ほかに五年五月から豊平川東側に職人小屋六〇棟を建設しているから、大通の東部にあった草小屋と思われる職人小屋など官設の建物をはじめとして、道路敷地ないし予定地にあったような町区画外の建造物、市中への移民の仮住まいも、焼くか取壊しをした可能性は否定できない。