この会議の結果として六年一月の開拓使役員の削減があった。東久世派対黒田派の確執という今までの解釈は、免職になった七等出仕以上のメンバーを考慮した場合、黒田に助命されて黒田派と言ってもよい旧幕府の人びとも含まれていて、単純に色分けできない。そのことから、無理に派閥争いなどと解釈をする必要はない。むしろ浦河支庁の主任である三好は、当時の政府の資金不足を顧みずに、次期事業計画に膨大な定額金を要求したといわれている(札幌区史など)。そのことと前述のような背景を合わせて考慮すると、開拓使の体制を整えていく過程での方針の対立と考えた方が妥当のように思われる。岩村が体制整備よりも本府建設を優先させたのに対し(三好の場合は、自分の担当地区の開拓の進行)、黒田は体制整備を優先させようとしたのではなかろうか。したがって黒田は定額内で治まるように事業を計画することを当然視していた。そして杉浦の日記の会議紛糾の原因に関する記述やその後の本府建設事業の進め方から見て、会議後黒田の方針がとられたと考えられる。
そのためこの札幌会議の結果は、札幌本府建設の進行に大きな影響を与えた。本府の全般的な建設から定額金に見合った事業の進行速度に変更されたのである。建設の時間で考えると本府建設完成の日程が遅らされたことになる。五年中の工事中断は、表面的には石材確保の不備に発している。それに加えての遅延である。そして中断した事業は、後述するように六年前半だけで竣工するほど進んでいた。さらに札幌の会計は岩村の条約違反のために定額金の収支のバランスを失っていた。その補塡のための事業縮小は、明治六年の不況を引き起こすことになった。