ついで三年九月、前年から北海道に管刹所数カ所建設と北海道中央往還道路開削を請願していた東本願寺に、札幌から定山渓を経由し有珠へ通じる道路の開削を指令した。俗に本願寺街道と呼ばれる道路の開削である。この道路開削は東本願寺が私的に行った工事であるため、開拓使の公文書の中にその工事の実態を示す文書が少ない。そのためこの本願寺街道の工事の実態は不明の部分が多い。その第一は、島判官の解任の原因であるという噂がたつほど、政治的に謎の多い開削工事であったことである(宮島幹 北行日記 全)。特に当時費用の工面もできそうもない東本願寺が、道路開削などを請願することからすでに謎を含んでいる。そのため北海道開拓の代表となった現如(光營)は、北陸地方を巡回して資金を得てから北海道に来ている(明治維新の東本願寺)。工事は四年七月に竣工したという。五年三月の「新道切開入用書上」(稟裁録 道文一〇六九八)によると、有珠から札幌まで新道入用経費は一万八〇五七両一朱である。区間は平岸村外れから伊達村尾去別まで二六里一〇町(約一〇三キロメートル)である。大きさは、幅三間を伐木し九尺幅の道路を開削した。東本願寺はこのほか三カ所の道路開削改修を行ったが、その恩賞に金一万疋が下賜された(東本願寺北海道開教百年史)。しかし『東本願寺北海道開教百年史』でみると、かなりの難工事を短期間に竣工していることから考えて、その道路が実際に使用に耐えうるものであったか、さらに耐久性はどれだけあったかなどは疑問の残るところである。特に開拓使の公文書では、東本願寺の道路開削に不都合があることを指摘している文書(札幌往復 道文三三四)もあり、現在では謎の第二として、工事の実態と完成した道路の実態を挙げなければならない。ほぼ明確なのは、六年の札幌本道の完成もあってその後利用が少なく、廃道化していたことである。しかしこの道路の意義は、海側を通らない、函館との安全な連絡路の確保として重要な役割をになっていた。